🤣なぜ「釣り目」が東アジア差別になるのか?フィンランドから見る中国と巻き込まれる日本の違和感

フィンランドで起きた「釣り目」ジェスチャーを巡る炎上は、ほぼ例外なく「東アジア全体への差別」という文脈で報じられます。しかし、日本に暮らす多くの人にとっては、そこに小さくない違和感が残ります。現実の体感として、欧米での対人対応や評価は、中国人・日本人・韓国人で同一ではないからです。

それにもかかわらず、なぜこの問題は常に「東アジア」という一括りで処理されるのでしょうか。本稿では、「釣り目」という言葉の誤解を解きほぐしつつ、歴史的背景、国際社会の処理ロジック、そして現代の国際情勢までを踏まえて整理していきます。

動画では、ChatGPTとGrokに一般的な中国人、日本人、韓国人のイラストを何枚か描いてもらい、スライドとして入れています。あくまで参考レベルの画像ですが、皆さんはどのように感じますか?

🤔なぜ中国人と名指しされないのか

報道では、釣り目の画像には「中国人と食事」と明確に対象が表記されていました。しかしながら、現代の報道や外交の場で、この問題が「中国人差別」として語られることはほとんどありません。その理由は明確です。特定の国籍や民族を名指しすれば、問題は個別の対立や外交摩擦に直結します。

一方で、「東アジア」「アジア系」という抽象的な枠組みに置き換えれば、差別一般の問題として処理でき、国際社会としての原則論に落とし込みやすくなります。外見を誇張するジェスチャーは、対象を厳密に特定できない以上、個別化よりも一般化の方が制度的に扱いやすいのです。これは事実のすり替えというより、摩擦を最小化するための運用上の選択といえます。

🙄釣り目とは何か?目の形ではなくジェスチャーの問題

そもそも押さえるべき点は、「釣り目」という言葉自体が誤解を生みやすい翻訳だということです。問題視されているのは、目尻が上がっている・いわゆる猫目といった目の形そのものではありません。国際的に問題とされるのは、pulling the eyes(目を引っ張るジェスチャー)です。

これは、他者の外見的特徴を意図的に誇張し、嘲笑や揶揄として再現する行為を指します。横方向であれ、上方向であれ、「目を引っ張る」という動作自体が、歴史的に差別的文脈で使われてきた記号であるため、否定的に評価されます。

つまり、「釣り目」という問題は、外見の多様性ではなく、過去の差別コードを再演してしまう行為にあります。一般に目じりを上げて引っ張る方が、より侮辱している度合いが強いとも言えます。

😯釣り目の起源はどこか?中国人労働移民と黄禍論

このジェスチャーの起源をたどると、19世紀後半の欧米社会に行き着きます。当時、アメリカやオーストラリア、カナダなどには、中国南部を中心とした多くの労働移民が流入しました。欧米の一般大衆が初めて日常的に接触した「東アジア人」は、ほぼ中国人だったのです。

その中で形成されたのが、いわゆる黄禍論と、人種を外見で単純化する視覚的ステレオタイプでした。細い目を誇張する表現は、新聞の風刺画や舞台表現を通じて固定化され、やがて子どものからかいやジェスチャーとして定着していきます。

日本人や韓国人がこの枠組みに組み込まれるのは、日清戦争以降、そして第二次世界大戦期以降のことです。欧米社会において、「中国人・日本人・韓国人」を厳密に区別する視点はほとんどなく、結果として東アジア人全体が同一の視覚記号で表象されるようになりました。

😝反中感情の広がりと距離感

ここで無視できないのが、近年の国際情勢です。世界各地で、中国に対する警戒感や批判が強まっているのは事実でしょう。アメリカでは経済安全保障や人権問題を軸に対中強硬姿勢が明確化し、EU諸国も投資規制や外交姿勢で距離を取る動きが目立ちます。

こうした国家レベルの緊張感は、必ずしもそのまま個人への差別を正当化するものではありませんが、国民感情に影響を与えている可能性は否定できません。反中デモや抗議運動が各国で見られるようになったことも、社会的空気の変化を示しています。

ただし、この「中国への警戒」と、外見的ジェスチャーによる差別表現に直接的な因果関係があるとは言い切れませんが、台頭する中国人の活動を快く思っていない人は多いのかもしれません。ただし、政治的批判と人種的侮辱は別物であり、後者はどの文脈でも許容されない、というのが現在の共通認識です。

😒都合よくつかわれる「差別」の乱用

近年は「差別」という言葉が、非常に広い意味で使われるようになっています。しかし本来、外見や属性、生まれ持った特徴を理由に劣っていると決めつけたり侮辱したりする行為は許されませんが、相手の行動が実際に周囲へ迷惑を及ぼしている場合、その行為を非難すること自体は差別とは異なります。同時に、当事者でもない立場から過剰に介入し、声高に糾弾することが、かえって問題をこじらせる場合もあります。

今回の件は、「中国人と食事」という文脈が明確に示されており、対象もはっきりしています。その状況で日本人が前面に立って余計な主張を重ねることが、必ずしも建設的とは言えないようにも感じられます。差別という言葉を感情的に振りかざすのではなく、事実関係と文脈を丁寧に見極める姿勢こそが、今の時代に求められているのではないでしょうか。

😅感情と規範のズレをどう理解するか

「釣り目」は、中国人労働移民を起点として形成され、戦中を経て東アジア全体へと拡大していった差別的表現の歴史を持ちます。これは、19世紀から20世紀にかけて作られた視覚的ステレオタイプが、形を変えずに現代まで残ってしまったジェスチャーだと言えるでしょう。

一方で、現実の国民感情や国際関係に目を向けると、中国・日本・韓国は明確に区別されて評価されているのが実情です。それにもかかわらず、外見を誇張する行為が持つ歴史的文脈の前では、そうした違いは切り捨てられ、問題は一括して「東アジア差別」として扱われます。この点に違和感を覚える人は、決して少なくないはずです。香港や台湾の人々であれば、なおさら複雑な思いを抱くこともあるでしょう。

だからこそ、報道が何を目的としており、マスメディアがどのような印象を与える形でニュースを伝えているのかについて、情報を受け取る側が冷静に精査する姿勢が求められます。

皆さんは、この一連の報道に、違和感を覚えなかったでしょうか?

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