2月22日の「竹島の日」。あなたは、この一日を単なる地方行事だと思っていないでしょうか。しかし、その静かな式典の背後には、戦後直後の武力衝突、日本漁船の大量拿捕、李承晩ラインの一方的宣言、日韓基本条約という政治的取引、そして退任後に悲劇的な末路を辿ることも少なくない韓国歴代大統領の現実が折り重なっています。
なぜ韓国では強硬な対日姿勢が繰り返され、そのたびに政権は揺らぎ、そして崩れていくのか。なぜ日本は時に「現実的」とも「弱腰」とも評される対応を選んできたのか。感情論だけでは見えてこない構図が、そこにはあります。
本稿では、竹島の日の成立過程から実効支配の経緯、李承晩大統領の決断と失脚、その後の韓国政治の循環構造までを時系列で整理し、事実に基づいて問い直します。私たちはこの歴史を、どこまで直視できているでしょうか。
😐竹島の日の式典と現在の位置づけ
2026年2月22日、島根県松江市の島根県民会館で第21回「竹島の日」記念式典が開催されました。主催は島根県、島根県議会、竹島・北方領土返還要求運動島根県民会議。丸山達也知事が挨拶し、政府代表として古川直季内閣府政務官が出席、自民党からは党三役である有村治子総務会長が参加しました。参加者は約420人と報じられています。
政府からの閣僚派遣は見送られ、政務官レベルでの出席は2013年以降14年連続となります。高市早苗首相は総裁選時に「大臣が堂々と出席すべき」と発言していましたが、実際には閣僚級は派遣されませんでした。「総理は来ないのか」といった声も上がったとされています。
🤔高市首相の発言と「大臣」不参加の意味
高市早苗首相は2025年の自民党総裁選の際、「竹島の日には堂々と大臣が出席すべきだ」との趣旨の発言をしています。この発言は、長年政務官止まりであった政府対応を一段引き上げる可能性を示唆するものとして受け止められました。
しかし、2026年の式典では国務大臣の出席は実現せず、政府代表は従来通り政務官にとどまりました。その背景には、李在明大統領との首脳外交や日韓関係改善ムードへの配慮があると報じられています。
また、来月には訪米しトランプ大統領と会談が予定されており、日米韓の連携に影響を与えないよう慎重な判断が求められた可能性もあります。閣僚派遣は外交上の強いシグナルとなるため、韓国側の反発を避ける現実的判断が優先されたと見る向きが一般的です。
😶党三役参加は「格上げ」なのか
一方、自民党からは党三役である有村治子総務会長が出席しました。党三役(幹事長・総務会長・政調会長)は党内では総裁に次ぐ中枢ポストであり、今回の出席は従来の組織運動本部長クラスからの「格上げ」と位置づけられます。
ただし、党三役はあくまで政党の役職であり、国務大臣のように行政権を担う立場ではありません。外交や領土問題といった国家主権に直結するテーマでは、政府の閣僚が出席するかどうかが対外的なメッセージとして受け止められます。
その意味で、党としては最大限の配慮を示しつつも、政府としての公式シグナルは政務官レベルにとどまった、という構図になります。党と政府の役割の違いが、そのまま今回の対応の違いとして表れたと言えるでしょう。
😠1952年 李承晩ラインと武力事件
竹島問題の核心は1952年1月18日に韓国初代大統領・李承晩が宣言した「李承晩ライン(平和線)」にあります。これは公海上に一方的に設定された海洋境界線で、竹島をライン内に取り込みました。
1952年から1965年の日韓基本条約締結までの間、日本漁船の拿捕は約327隻前後、抑留された漁民は約3,900人規模とされます。死傷者は死者8人を含む40人台と記録されています。代表例として1953年の第一大邦丸事件、1955年の第6あけぼの丸事件が挙げられます。
当時の日本は占領終了直後で自衛隊も存在せず、海上保安庁も武装を外して出動する状況でした。韓国側は「資源保護」「海洋主権」と主張しましたが、米国は公海自由原則違反として否定的見解を示しています。
🤨サンフランシスコ平和条約と韓国の立場
1951年署名のサンフランシスコ平和条約では、日本は朝鮮の独立を承認し、済州島・巨文島・鬱陵島を放棄しましたが、竹島は放棄対象に含まれませんでした。条約第2条(a)項の文言には竹島の記載はなく、日本側はこれを根拠に同島が引き続き日本の施政権下にあるとの立場を取っています。
一方、韓国は条約会議に招待されず、正式な署名国ともなりませんでした。事前に米国へ竹島を放棄対象へ追加するよう求めましたが、米国のラスク書簡(1951年8月)では竹島を日本領とする認識が示され、要求は退けられました。
韓国側は大韓民国臨時政府の法統継承を根拠に「戦勝国的立場」を主張しましたが、国際法上は連合国署名国ではありませんでした。この扱いに対する強い不満や疎外感が国内政治の中で増幅され、結果として1952年の李承晩ライン宣言、さらには竹島の実効支配へと踏み切る背景の一つになったと分析する見方があります。
😶日韓基本条約と漁業問題のその後
1965年の日韓基本条約と漁業協定により、李承晩ラインは形式上撤廃されました。もっとも、韓国から日本への直接賠償はなく、日本側は請求権放棄と国内補償で対応する形となりました。この点については、実質的な責任追及を行わず経済協力を優先した日本の姿勢を「現実的判断」と評価する見方がある一方で、被害漁民の立場からは「弱腰外交」との批判も根強く残っています。
その後1998年の新日韓漁業協定で暫定水域が設定されましたが、竹島周辺の扱いは棚上げのままとなり、問題の本質的解決には至っていません。2016年以降は交渉決裂により相互EEZ内操業禁止が継続しています。日本漁船は韓国EEZで操業していませんが、日本側EEZ内での韓国漁船の違法操業が問題視されることがあります。結果として、漁場の「公平性」が完全に決着したとは言い難い状況が現在まで続いています。
😥李承晩大統領の全盛期と末路
李承晩は1948年に大韓民国初代大統領に就任し、1952年、1956年の選挙で再選されました。1952年には憲法改正を強行し直選制へ移行するなど、強権的な統治手法を取ったことでも知られています。
同年1月18日にはいわゆる李承晩ラインを宣言し、日本漁船の拿捕や抑留が相次ぐ事態となりました。国内的には朝鮮戦争下で反共の象徴的指導者として一定の支持を集めましたが、長期政権のなかで不正選挙疑惑や腐敗への不満が拡大します。
1960年3月の大統領選挙をめぐる不正が引き金となり、学生運動を中心とする四月革命が発生しました。その結果、李承晩は辞任に追い込まれ、同年ハワイへ亡命します。反日政策や強いナショナリズムは政権維持の一手段でもありましたが、最終的には国内政治の不満を抑えきれず、国外で晩年を過ごすことになりました。
😶歴代韓国大統領の共通する闇
李承晩退陣後の韓国政治を振り返ると、退任後に厳しい運命を辿る大統領が少なくありません。朴正煕は1979年に暗殺され、全斗煥・盧泰愚は後に収監、盧武鉉は退任後に自ら命を絶ちました。朴槿恵や李明博も収監され、尹錫悦にも有罪判決が言い渡されています。
政権ごとに事情は異なりますが、在任中は強い支持を集めても、退任後に司法的・政治的責任を問われるという循環が繰り返されています。対日強硬姿勢や歴史問題への言及は支持率上昇につながる局面もありますが、長期的な政権安定を保証した例は多くありません。
朴正煕が「竹島は日韓関係の障害」と語ったとされる逸話も示すように、実利外交と国内世論への配慮の間で揺れる構図は現在まで続いていると言えるでしょう。
😌韓国の若い世代が見つめる現在
一方で、韓国社会の内部では世代的な変化も進んでいると指摘されています。いわゆる「反日」を政治的動員の道具としてきた旧来の言説に対し、若い世代の一部はより現実的で実利的な視点を持ち始めているとも言われます。Kカルチャーは音楽、映画、ドラマを通じて世界的な評価を受け、半導体やIT産業でも韓国企業は国際市場で存在感を示しています。
こうした成功体験を背景に、自国の文化や民族性に自信を持ち、過度な被害者意識に依存しないアイデンティティを形成する層も増えているようです。もちろん世代全体が一様に変化しているわけではありませんが、国際社会との接点を日常的に持つ若者ほど、歴史問題を単純な対立構図で捉えない傾向も見られます。
竹島問題を含む歴史認識についても、感情より事実を基に議論する空気が醸成されるのかどうかが、今後の分岐点になるのかもしれません。
😵「竹島がなければ」という本音
竹島をめぐる「爆破」発言として具体的に言及されるのが、1965年前後の日韓国交正常化交渉期における朴正煕の発言です。後に大統領となる朴正煕は、日韓基本条約締結を急ぐ中で、竹島問題が最大の障害になっているとの認識を示し、側近に対して「竹島を爆破したい」「なくなってしまえばよい」といった趣旨の言葉を漏らしたとされています。
これは領土を軽視するというより、経済優先・実利重視の立場から「領土問題で日韓関係を壊すのは得策ではない」という発想に基づくものでした。この発言は、2012年に長女である朴槿恵が国会で言及したことで再び注目を浴び、韓国国内では「父の裏切り」との批判も起きました。
一方、日本側では「韓国指導層の本音が現れた証言」と受け止める声もありました。朴正煕自身は在任中、反日教育を維持しながらも日本との経済協力を推進する現実路線を取りましたが、最終的には1979年に側近によって暗殺されています。
公然と領土を譲る発言は支持を得にくいという政治的現実と、実利を優先したいエリート層の思惑との間に横たわる緊張関係が、竹島問題の複雑さを象徴していると言えるでしょう。
😶揺れ動く韓国政治とこれから
竹島の日の式典は、1905年の島根県告示に由来し、2005年条例制定以降20年以上続く行事です。その背後には1952年の李承晩ライン、漁民拿捕事件、1965年の日韓基本条約、そして歴代韓国大統領の栄光と失脚が折り重なっています。
とりわけ韓国では、大統領が在任中に強い権限を行使し、支持率確保のために対外的に強硬な姿勢を取る一方、退任後には司法的責任を問われるという循環が繰り返されてきました。反日的な言動が国内政治で一定の動員力を持ってきた局面も否定できません。
しかし近年は、若い世代を中心に国際経済や安全保障を現実的に捉える視点が広がりつつあります。歴史問題や慰安婦問題をめぐる対立は依然として残りますが、世代交代とともに語り方や優先順位が変わりつつあるのも事実でしょう。
竹島問題もまた、感情や政治的駆け引きだけでなく、歴史的経緯と国際法の整理の上に立った冷静な議論が求められます。将来、事実を直視した議論が韓国内でも広がり、より成熟した形での相互理解が進むのかどうか。皆さんは、これからの日韓関係に何を期待しますか?











